2012-02-29

5年前の2月最後の日



おじいちゃんが大好きです


そう 5年前の3月1日に手紙を書いた
この世で おじいちゃんにおくる
最後の手紙


地元に帰れば
実家にいれば


会いに来てくれる気がする




2006年10月
友達の結婚式で帰省したとき
着物を着たから 見に来てと 会ったのが最後
10日後 くも膜下出血で倒れてしまった


手術は成功した 意識は戻らなかった
年明けに帰省した時は 毎日 病院に行った
最後の日 「またくるね」と手を握ると 強く 強く 握り返してくれた
麻痺で動かないはずの左手で 
意識のない おじいちゃんの強い握力に ビックリした


わたしが次に会った おじいちゃんは 永久の眠りにいた


2007年1月末 「覚悟を決めてください」と言われたと聞く
2月には 家族の皆 覚悟を決めたと言った


わたしには まったく 覚悟はつかなかった
おじいちゃんが「いなくなる意味」を受け入れたくなかった


5年前の 2月最後の日 夜 寝る前
「もうそのときなんだ」と覚悟が下りてきて 眠りについた
よく朝 おじいちゃんは旅立った


わたしを待っていたかのように 早朝に 
母の祖母が亡くなったとき 
「俺はあと10年生きれれば良い」と言った 10年後に 旅立った


トキが解決する と ヒトは言うけれど
5年経ったいまでも 命日前日 命日 誕生日 には 涙があふれる


おじいちゃんには会えないけれど 寂しくはない
わたしのココロの中で おじいちゃんの魂は生きてる
わたしの身体で 世の中を見て 大好きなお酒を飲む
そんな 感覚に ときどき なる


あしたは「焼酎」を飲む



2012-02-07

おろかなジブン

ここ数年 ヒトを信じるとゆうコトがカンタンではない わたし
己と 目と 感覚の 未熟さゆえの経験から 難しくしていた


「信じるコトから始めましょう」と歩み始めたのに 
卑怯からの記憶が 頭をよぎった
卑怯を正当化はしないが責めもしない 卑怯にさせたのは わたしだ


また 何も分かっていないのではないかと
キレイな言葉で誘導されているのではないかと 
1つ疑うと 全てが歪んでいった


不安で 自信も持てず 気後れしていった
逃げようかと 諦めようかと 考えている自分が イヤだった


疑う自分を不幸だと 思った
信じるのは怖いけれど 疑いながら生きるくらいなら
信じて もし裏切られても そこから仕切り直せばイイ


信じるコトを辞めてしまったら わたしは一生 何も信じられなくなってしまう


冷静になっていった


わたしが疑ってしまった言葉は 誠意に満ちていた
その目に 言葉に 声に 空気に 偽りは感じられなかった
わたしが至らないだけなのに 
フォローの言葉と共に 自分にも責任があるのだと言った


自分が とてつもなく愚かで あさましく感じた
その誠意を 一瞬でも 私の中だけでも 汚してしまったコト
わたしの過去になにがあろうと してはいけない


今日の 愚かさを あさましさを 忘れてはいけない
肝に命じ さらに精進したい

2012-02-04

うつりゆく

自分の ココロ 思考 スタンス
これらのうつりかわりをみてゆくのは おもしろい


わたしの思考はわたしのなかで イチバン はやい
つぎにココロが追いつき スタンスへとなる


思考とココロには時差がある
ココロとスタンスは なだらかにつながる
ココロが思考に追いついた瞬間 思考は次へと進む


みちに起こるコトの 大まかなコトガラはわかる
分かるようになったとき この世がつまらなくなった
ゆくさきも 段階も わかっている ひどく面倒になった
50くらいで逝けたらいいなと考えていた


大まかなコトガラの「経緯」がどんななのか 楽しもうとする自分がいる
根拠のない直感と すこしのもどかしさを感じながら
これから どんなコトがおきて ソコへ行くのか


かけ離れた時差の 思考とココロが ときどき融合する